人と比較して生きることに意味はあるか?

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世の中、精神疾患人が多くなっているらしい。厚労省のデータによると医療機関に通っている人の数が300万人以上になっている。予備軍も含めればその数は計り知れない。

精神疾患

医療機関に通っている人以外にも、民間のカウンセラーやセラピストのセッションを受ける人も多く、「心」を扱った「ビジネス」をやっている人も患者数に合わせて増えていると思う。

サラリーマンというのは、組織のストレスにさらされているので、心にダメージを受けがちだ。特に、「いい人」は意見が言えずに、不本意な立場になったり、自己犠牲的な精神で誰もやらない仕事を引き受けてしまったりする。

割り切っていられるうちはいいのだけど、ストレスがキャパを超えると、精神に影響が及ぶ。これまでふたをしていた不公平感が爆発する。

こうした人にカウンセラーは、

「がんばってきたんだね」
「あなたはあなたのままでいいよ」
「人と比較する必要はない」

と言うのだけど、これって本当に適切な解答なのだろうか?

少なくとも、今のクライアントを肯定することで、精神は安定させることができても、「自己実現」からは遠のくのではないかと思うのは僕だけだろうか?

世の中は比較でできているという事実

「人と比較する必要はない」というのは、僕は詭弁だと思っている。

というのは、世の中は比較でできているからだ。

買い物をする時は、お店を比較するし、
商品も比較する。
入りたい会社も比較するし、
会社側は優秀さを比較する。

パートナー選びも比較だし、
結局のところ、
比較して劣っていることで落ち込むのだけど。

たいていの人は、自分のレベルに合わせて帳尻を合わせて生きているのだけど、帳尻が合っているはずのことが合わない時に、精神的に落ち込むことになる。

これは自己認識の誤りであるから、正しい認識に改めないといけない。人間が集団的動物であり、他者との関係性の中で自己を形作るとしたら、比較による他者からの評価を受け入れないといけない。

だから、「比較する必要はない」というのは、正論のように聞こえるけど、麻薬のようなもので、根本的に精神的な回復を図れるものではない。実際、アドバイスをしているカウンセラー自体、マーケットの中で同業者よりも自分の優位性を伝えることに一所懸命だ。

人と比較しなければ楽になるのだけど、世の中が比較でできている以上、比較しないというのは、自分の殻に閉じこもるということになりかねない。

サラリーマンは、他者の評価で給料が決まるので、サラリーマンとして活躍することを願う限りは、比較の中に身を投じなければならない。

 

少なくとも仕事においては「自分らしく」は1位でないと成立しない

「人と比較をしない」という言葉の先には、「自分らしく」というゴールがある。

他人の目を気にしないで、自己を承認することができれば人は幸せに近づくというのは、解釈を間違うと結構面倒なことにある。

どんな人であれ、資本主義社会で生きるためには、資本(つまりお金)が必要で、資本を得るためには、仕事をしなければならない。

すでに莫大な資産を築いていたり、莫大な資産のある家に生まれた人は例外として、「お金を得る」作業は必要だ。

お金を得る作業とは仕事をするということで、ここにはふたつの意味合いがある。

1:依頼者の依頼通りに依頼内容をこなす。

2:自分を売る

1は時給や給料の考え方で、お金を払う側のルールに従うということだ。

2は、自分の価値を認めさせるということで、ルールは自分が作ることになる。しかし、自分のルールが受け入れられなければ仕事をしていることにはならないし、受け入れられれば莫大なリターンがある。

独立するだけでなく、サラリーマンが新規事業を立ちあげたり、自分の力を発揮できる会社に転職するもの同じことになる。

成功すれば「自分らしく」が達成できるが、そのためには、少なくとも比較されても優位性のあるポジションにいることが前提となる。

少なくとも、どんなに小さな分野でもいいから、「自分らしく」を実現するためには、1位でないといけない。

 

打席に立たないと自分の実力はわからない

少し話は変わるが、あなたは自分の実力をどう判定しているだろうか?

僕に関していえば、昔の方が自分の実力を高く評価していたように思う。

「このままではいけない」
「こんははずではない」
「もっとできるはずだ」

と常に考えていて、いつもフラストレーションを抱えていた。

今ならわかるけど、当時の僕は自分にあるはずの実力に執着していただけで、現在の自分が見えていなかった。

例えば、プロ野球選手でも、キャッチャーの前でワンバウンドするようなボール球を空振りする。テレビを見ていると「なんであんなボールを振るんだろう?」と不思議に思えるのだけど、打席に立ったらプロのピッチャーのすごさがわかる。

以前にあるピッチャーのボールを打席で見たのだけど、フォークボールは50センチくらい落ちる。まさに目の前でボールが消えるので、無様な空振りをすることになるのだ。

もし、「本当の自分はこんなもんじゃない」と思うなら、評論をやめて打席に立つことをおすすめする。

給料に不満があるなら、転職の面接に行って自分の価値を証明すればいい←ただし、転職をしないでも構わない。
実力が証明されればそれでいいし、「こんなはずではない」自分が「そんなもんだった」とわかることも経験だ。

 

僕の場合、独立した当初に、全く仕事がなくて、組織のいた自分を自分そのものだと勘違いをしていたことに気づいた。

大切なことは、逃げずに、言い訳もしないで打席に立って全力でバットを振ることだ。

時々、勝負をする前に体調を崩して、ベストでない状態を拠り所にしている人がいるのだけど、勝負所でベストな体調を保てないのは、実力を診断する以前の問題だ。

だから、僕は「あなたは、本当はできる」とは言わないし、言うとしたら、打席に立った人を応援する場面に限っている。

 

実力がないと分かった時にどうすればいいか

さて、「こんなはずではない」自分が「そんなもんだった」とわかった時に、どうすればいいのかという話をする。

ここで精神を病むのだけど、はっきり言えば、病んでいる時間などない。

こんなはずではない→そんなもんだった→努力する→実力を試す→まだ力が足りない→努力する→実力を試す。。。というサイクルを回し続けるしかない。
独立した当初、仕事がなかった僕は、とにかく営業活動をした。あちこちに顔を出して、仕事をもらおうとした。正直、コンサルタントが営業をするというのはカッコよくはないし、人によっては僕の強引さに辟易した人もいたかもしれない。

それでも仕事を発注してもらわなければ、コンサルタントしての実力を高めようがない。
自分に実力がないとわかった時に、何をすればいいか?
それは、実力を高めるための努力をするということ。

努力とは、「やれることを全部やる」ということになる。

やれることを全部やるとは、「このくらいでいいか」と決別することである。

世の中、効率的に物事を進める方が人気があるのだけど、不効率なことを繰り返してうまくいくようになってから効率化を考えればいいわけで、最初から効率を考えてもうまくいかないと思う。

特に、僕のような実力のない人間には絶対条件だと思う。

 

静止した幻想的な希望と傷だらけの絶望

努力すればうまくいくかというと、残念ながらそうでもない。

石原明さんが提唱している「成功曲線」というものがあるのだけど、努力と成果は比例しないという現実がある。

成功曲線

成果は遅れてやってくる。

だから、あきらめないことが重要だと言われるのだけど、有益な努力と無駄な努力がある。

有益な努力とは、仕事においては、サービスを提供した人が喜んでくれる回数が増えていく努力を言う。最初はたった一人でいい。一人を喜ばせることができれば、他にも喜んでくれる人がいる可能性を示す。その後は、喜んでくれる人をさがす努力をすればいい。

打席に立って勝負をしない状態の希望は静止した幻想の希望でしかない。「私はきっとできる」「人と比較する必要はない」というのは傷つかない代わりに、現実の変化もない。

勝負をして負けると傷を負う。自分がダメなんじゃないかと思うこともある。結果、絶望をすることになる。ただし、できないことがわかるということは、できることがわかるということでもある。

できることに集中することで、自分らしさが発見できることがある。

僕は、静止した幻想の希望よりも、傷だらけの絶望の先に、自分らしさを見る。

 

「しゃーない」という自分への希望

なんでもできるはずなのに、実はたいしたことができない自分の気づいたとき、僕が何をしているのかと言うと「しゃーない」(関西弁です。しようがないという意味)と思うようにしている。

以前、僕を堤真一に似ていると言ってくれた女の子がいて、気をよくした僕はとあるセミナーで「堤真一に似ていると言われます。」と言ったのだけど、会場の雰囲気は失笑どころか、憎悪が渦巻くほどで、まさに僕も会場もドン引きだったのだけど、これこそ「しゃーない」である。

堤真一

自分の写真は小さめに(笑)

自分の写真は小さめに(笑)

だって、堤真一に似ていないもの。
でも、似ていると言われたことがあるんだもの。

ということで、僕がやはり堤真一に似てないようなので、これは「しゃーない」。

しかし、似ていないからと言って堤真一よりも劣っているかと言えばそんなことはない。俳優にはなれないけど、仕事で活躍すれば、彼以上にモテるかもしれない(そんなにモテたいとは思わないし、堤真一もそんな雰囲気がするので、比較自体がナンセンスかも)

僕にとっては、幻想の自分に期待するよりも、現実に打ちのめされた後、「しゃーない」と思う自分にこそ、希望がある。

「しゃーない」はあきらめではない。

自分にできることを見つけるためのメッセージだ。

繰り返しになるが、人と比較しないのではなく、比較しても劣らないポイントを見つけることが「自分らしさ」だと思う。

 

ありそうなところになくて、なさそうなところにあるものは?

最後にクイズ。

「ありそうなところになくて、なさそうなところにあるものは?」
答え。

才能。

僕はこれまで才能がなさそうな人が努力によって自分らしさを発見する場面に何度も立ち会ってきた。逆に、「やればできる」と言われたまま、変化のない人生を歩んでいる人も多く見てきた。
あなたはどちらのタイプで、どんな人生を歩みたいのだろうか?
人と比較することに意味はあるか?
僕はあると思う。しかし、比較の先には、比較のできないほどピカピカの自分がいることをお伝えしておく。

 

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